「阿蘇外輪山」は、劉寒吉の絶筆ともいえる小説である。亡くなる二年前の一九八四(昭和五九)年に発表された。主人公は、熊本の歌人宗不旱(そうふかん)をモデルとした初老男の不玄(ふげん)。若山牧水や北原白秋を厳しく批評し、その激越な歌人論によって歌壇から排斥された。ついには、阿蘇外輪山の深葉山密林で消息を絶つ。内外から高い評価を得た作品で、北九州市立文学館発行の文庫本に収録している。
劉寒吉(本名・濱田陸一)は〇六(明治三十九)年、旧小倉藩の砂糖御用達商人「濵田屋」の長男に生まれた。学生の頃から岩下俊作らと同人誌「とらんしつと」などを発行。筆名の「劉」は、朝鮮を旅した際に出会った青年の名に由来し、「寒吉」とは素寒貧(すかんぴん)の「寒」、貧相な男の意であるという。
詩作に専念していた劉が小説へ転向したのは、三八(昭和十三)年。火野葦平の芥川賞受賞に触発されてのことだった。郷土史家でもある劉は、九州を舞台に、歴史に埋もれかけた人物や市井の人々を丹念に描いた。小倉に生まれ、生涯を小倉で過ごした劉。郷土への思いは、そのまま作家の情熱となった。
そんな劉が三十年間温め、生涯最後に選んだ小説の材は、世間に追いやられた男だった。作中、次のように語っている。「世の中に溶けこむことのできなかった不玄の性格は、ほっておいても山の中に消え去らねばならないものを持っていた」
しかし、作品を覆うのは、歌壇から排斥されても、歌人として信念を貫いた者の執念が。劉が共感し、主人公に託した思いにほかならない。
やがて、自分で選んだ死に場で誰に知られることもなく死んでいく不玄。劉にとっても小説「阿蘇外輪山」は、自ら定めた筆の置き場だったように見える。
一方で劉は、不玄の性、いわば生身の人間の営みも描いている。「おれとお前がひとつになってしまえばいい」と不玄は年若い姪(めい)に迫る。孤高の男が、発露せずにはおれなかった人恋しさ。五分刈りの頭に混じる白髪と相まって、その姿は切ない。
だが、こんな男にすら、作家は穏やかなまなざしを向ける。市井に生きた劉の本質が、ここにある。
(元学芸員・宮地里果)
※2008.02.09「西日本新聞」北九州京築版に掲載